こちらのレビューは、一部ネタバレを含む可能性がございます。ご注意のうえ閲覧ください。
2024.12.0519世紀の画家ギュスターヴ・モローの、幻想的な美の世界に魅せられて
良いと感じた点・楽しめた点
悪いと感じた点・疑問に感じたことなど
総評・全体的な感想
画家ギュスターヴ・モローをなぜ知ったのか?に関しては、じつは自分でも、あまりよく覚えていない。けれどモローの絵画を、初めて見たときに感じた衝撃は、今でもはっきり覚えている。
私が最初に見たモローの絵画は、モローの代表作の一つ「出現」だった。モローの「出現」は、歴史家ヨセフスの書物「ユダヤ古代史」に出てくる、サロメ王女の物語をモチーフに描かれた。
サロメの母親へロディアは、娘のサロメを連れてユダヤのヘロデ王と結婚して、ユダヤの王妃になった。サロメとヘロデ王との関係は、血のつながりを持つ親子ではなかったが、母親のへロディアがユダヤの王妃になったことで、サロメの身分もユダヤの王女になった。
ところが聖者(預言者)ヨハネは、ヘロデ王とへロディアとの結婚を、ユダヤ律法に反するとして非難した。それが原因でヨハネを恨んだへロディア王妃は、サロメ王女を使ってヨハネに復讐をあたえる。
サロメ王女は、ヘロデ王の前で美しい舞を踊り、舞の褒美に望むものを何でもあたえる、というヘロデ王の言葉に、サロメ王女は母親のへロディア王妃から、そう答えなさいと教えられた通り、聖者ヨハネの首がほしいと望み、ヨハネはヘロデ王の命令で首を落とされた。
モローの「出現」は、ヘロデ王の命令で首を落とされた聖者ヨハネが、死後に生首だけの姿になって、サロメ王女の前に現れた、という場面を描いた作品だ。
画面の中央には、首の切り口から血を滴らせたヨハネの生首が、不思議な光を放ちながら宙に浮き、美しい宝石と衣装で着飾ったサロメ王女が、ヨハネの生首に片方の手をさし伸ばしている、という謎めいた絵画だ。
これはサロメ王女が、踊りの中で見た夢とも、首を落とされたヨハネの亡霊だ、とも解釈されている。
この「出現」がきっかけで、モローの絵画を知った私は、モローの絵画の世界をもっと深く知りたくなって、図書館に行ってモローの画集を借りたり、ギュスターヴ・モロー展も見に行って、実物の「出現」も見た。
今回レビューで紹介する「ギュスターヴ・モロー世紀末パリの異郷」は、図書館で見つけたが、モローは美術ファンの間で人気の高い画家なので、モローの画集は一般の書店でも手軽に入手できると思う。
モローの絵画は、ギリシャ神話やユダヤ教やキリスト教の説話を、モチーフにした作品が多い。そしてサロメ王女と聖者ヨハネを描いた「出現」のように、幻想的で美しく残酷で悲劇的な作品が多い。
私はギリシャ神話が好きなので、ギリシャ神話をモチーフにした作品に魅力を感じる。ギリシャ神話の英雄オイディプスの物語をモチーフにした「オイディプス」がそうだ。
モローの「オイディプス」は、美女の顔と大きな翼と獣の体を持つ怪物スフィンクスと、英雄オイディプスとの対決を描いた絵画だ。
スフィンクスは通りすがりの人間に、朝は四本の足、昼は二本の足、夕方は三本の足で歩く生き物は何だ?という謎をかけ、その謎が解けない人間を食い殺す。
そのスフィンクスの謎を解いて、怪物を退治したのがオイディプスで、モローの絵画「オイディプス」は、オイディプスの胸元に獣の前足をかけ、オイディプスを襲う態勢に入ったスフィンクスの視線と、スフィンクスの視線を正面から受け止め、じっと見返すオイディプスの視線とが交差して、絵画全体に緊迫感をあたえている。
また「ギュスターヴ・モロー世紀末パリの異郷幻想」裏表紙にも使われている、幻獣一角獣と美女との戯れを描いた「一角獣」も好きな作品だ。この「一角獣」に描かれている美女は、美しい宝石と衣装で着飾っているが、美女に寄り添う一角獣も、美しい宝石を散りばめたネックレスを、首に飾っている(ちなみに表紙に使われた作品は「ヘロデ王の前で踊るサロメ」で、この作品に描かれたサロメも美しい)
ギュスターヴ・モローは1826年4月、パリの裕福な家庭に生まれ、1898年4月72歳で死去した。生前のモローは自分の没後、自宅を美術館にするための、増改築工事に取り組んでいた。
自分の作品を展示する美術館を建てる、というモローの望みは、1903年1月国立ギュスターヴ・モロー美術館が開館して、叶えられる事になった。
ギュスターヴ・モローの美術館は、4階建ての建物で、油彩、水彩、デッサンなど、約1万4000点以上のコレクションが所蔵されている。2階はモローの寝室や居間や書斎など、生前のモローの居住空間も公開されている。
この国立ギュスターヴ・モロー美術館には、日本からのファンが多数来館しているらしいが、じつはモローの絵画は、日本の美術(ジャポニズム)の影響を受けているそうだ。
1867年パリ万国博覧会に独川幕府は、将軍の弟昭武(あきたけ)を送り込み薩摩藩や佐賀藩も、独自のパビリオンを展開して、パリに日本ブームを巻き起こした。
パリ万国博覧会の2年後に「東洋美術館」展が開かれ、1869年2月美術評論家のエルネスト・ジュノーは「東洋美術館」展の主催者(応用芸術中央連合)から請われて「日本美術」というタイトルの、講演を行なった。この講演は後にジャポニズム発展の先鞭となった。
モローもジャポニズムの影響を受けたようで、国立ギュスターヴ・モロー美術館は、豪華な衣装をまとった花魁を描いた、歌川芳員(うたがわ・よしかず)の大判錦絵を2枚所蔵している。
また「北斎漫画」を、高く評価していたモローは、1880年頃「北斎漫画」14冊を手に入れ、一部の図様を透き写し、拡大化縮小化して模写するなど、研究をしていたらしい。
またモローは、日本の仏教美術にも関心を寄せて、不動明王像や菩薩像をスケッチしていたそうだ。
ギュスターヴ・モローと日本の芸術との接点、日本の芸術がモローの才能に刺激をあたえていた事を思うと、19世紀のパリの画家ギュスターヴ・モローの存在が、そう遠くないものに感じられるだろう。
まだモローの絵画を知らない人は、試しに一度モローの絵画を見てほしい。そして神話や宗教をモチーフに描く、モローの幻想的な美の世界に浸って、しばしの時を酔いしれてほしいと願う。